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PS2版以降はパッケージに後ろ姿だけですが往人の姿があるのもそうですけれど、最初から往人に声がついているのが大きくて(DC版はAIR編になるまで往人に声はつかない)、それまでプレイヤーの想像で補われていた国崎往人像に、AIR編で姿(と声)という実存が突きつけられる衝撃が薄れているのですね。
『AIR』は、最初に触れたのがPC版かDC版だった人だけが受けられた、「国崎往人の姿を初めて見る衝撃」というのがあるんですよね。元々『AIR』は、往人の主観視点で始まるゲームで、DREAM編を最低3ループしてSUMMER編を見た後に始まる、烏のそら視点のAIR編になるまで、往人の姿は一切出てこないので。
妻のミーナを物、家電扱いすることに抵抗感を覚えるタクマ。ミーナが意思を持たない人形でもこの抵抗感は芽生えるのか。現実に意思のないミクさんと結婚し、現段階では「物」であると言いきる人が存在することもあり、色々と考え込んでしまう。死なないからとAIBOを機械扱いして愛するのは侮辱なのか。
あれ、1枚貼り漏れてた。 この上司とのエピソード、短いシーンなのにアニメ版では結構削られている要素が多くて、なぜ削ったのかが色々と興味深い。 https://t.co/6EYFHOnplS
『僕の妻は感情がない』アニメ2話、「身内を悪く言うのよくないよ 照れ隠しでも」という台詞がカットされていて残念だったけど、家電呼ばわり=悪い事、という印象や価値観を避ける為かしら。ロボットを妻にすることへの他者の目や反応が出てきてからが本番だけど、アニメ版の描き方は少し変わりそう?
一方、「やるべきこと」だけをやれるなら、それは賢者の最高峰(グラン・ローヴァ)ですよ。 ※引用画像は紫堂恭子『グラン・ローヴァ物語』2巻より
『トラペジウム』、力無いものが目的のために力あるメンバーを寄せ集めるのは類型の1つだし(『七人の侍』とか)、学生がそれをやるのも少年漫画のバトル・競技もので、東も『アイシールド21』の蛭魔やマルコ、『弱ペ』御堂筋の延長、チームが限界を迎え敗北崩壊する側が主人公なのが特質という理解。
「首がちぎれて生きていられる生物はいない」、当時のジャンプ漫画でもディオだとかダイ=アモンだのが生きているので(吸血鬼をアンデッドと解するなら生きてはいないのかもしれないが)、「本当にござるか~?」と懐疑的だったのを思い出すなどする。しかしここ、ゲーム文脈の(ドラクエでなくウィザ
「アイドルみたいに可愛い」と思ったけど、本当にアイドルだったというオチは流石にないかな…と思ったら発生した現実。 創作でも今ならデビュー前とか引退後とか主人公が物知らずというエクスキューズなしでも成立させられるか。 画像はアイドルではなかった例(1枚目『エヴァ』、2枚目『あさこ』)
ちなみにコミカライズだとエリスの件が少し強調されていたり(牙を研ぐ狂犬エリスの話を挿入したりも)、ルイジェルドとロキシーの邂逅にアレンジが加えられていたり、ルイジェルドの妹達の道中の話も笑い話度が上がっていたりと、描き方の違いが面白い。今回は原作から引き算がアニメで足し算が漫画か