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その表現の存在理由をはっきり説明できないシーンが多く、かつ観客の興味を上映時間中惹き続けてこそ、悪夢映画は悪夢映画たりえる。その点、やはりエルム街の悪夢は1作目が最高だ。
甲高い鳴き声を残して通廊を駆け去る逆光の羊。
そしてイタリアンホラーの「らしさ」を一手に担っていたルチオ・フルチのタイトルバックはやはりそのテーマ曲と共に強烈に印象づいている。
この文字、この画を見ただけで曲が幻聴できるファンが多いのではないか。
水しぶきを上げ、水没した都市を駆けるジープ。階段だろうが狭い通廊だろうがお構いなしに登場人物に食らいつき疾りまくるステディカム。残虐な殺人に慄く近未来都市に、クリーチャー殺人鬼と同じくらい狂った暴力刑事が睨みを利かす。『スプリット・セカンド』は殆ど完璧なSFスプラッター映画だ。
ゾンビって元々、ホラー好き少年なら粘土でもって見よう見まねで作ってみたくなる野蛮な魅力を放っていたはずなんだ。演者の顔ベースで造られたゾンビが溢れる昨今のゾンビ映画に僕らの欲求は一切喚起されない。
予め死ぬことが決めきられた若者たち。その笑顔にすら死相をうかべ、いくら浮かれていても「あ、でも俺今夜死ぬんだよな…」と、ふいにストンと真顔になる。これは演出なのか、それとも混乱をきたしていたという現場が生んだ奇跡の芝居なのか。唯一無二の死のリアル感が『デーモンの嵐』にはある。
『エイリアン・フロム・ディープ』に出てくるわけのわからないクリーチャー。なんでこんな形をしてるのか、ぱっと見理解できない怪物の凄み。