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『栄花物語』娘・禎子内親王の五十日祝での妍子(20)の装束。 「宮の御前も見奉らせ給へば、唐の綾を白菊にてをし重ねて奉りたり。されば白き御装ひと見えてめでたき」 姉の彰子も、2人の息子の五十日祝では小袿を着ていたので、彼女も記載はないけど着てたんじゃないかと思います。
妍子立后時の大宰相の君の装束。 「大宰相の君などいふ人をば、大臣など言ひつけ給ひ、をよびをさしいひつれど、いとけざやかにえもいはぬ葡萄染の織物の唐衣などを着て候らふ」 栄花には妍子付女房が「おどろおどろしき大海の摺裳」を着けた描写もあるので、今回もおどろおどろしく行ってみました!
『権記』より翌1011年の賀茂祭御禊での童の装束。二人で一組の装束に、濃淡で変化をつけたと考えました。 「童六人(二人、二藍の狩衣・指抜、紅打の袙袴。二人、青朽葉・茜打の袙袴。二人、赤色・蘇芳染の袙袴。其の狩衣・指貫、並びに双毎に浅深有り)」
雑色まだいるよ! 「六人、紅梅の狩衣・袴・青色の袙。六人、若葉色の狩衣・袴・茜染の袙。六人、山吹の狩衣・袴・蘇芳の袙。六人、二藍の狩衣・袴・紅染の袙。」 まるで衣の色見本のような集団ですネ😉
続いてカラフルな雑色達。 「雑色六十人。長四人、白き装束。六人、赤色の狩衣・袴・薄色の袙。六人、青色の狩衣・袴・山吹の袙。」 道長はこの日の装束を「頗る過差たり。而るに神事に依るなり」と言ってて、めちゃ確信犯。 上がこういう心構えなんで、そりゃ下も年々派手になって行きますよね~。
御堂関白記1010年の賀茂祭での馬副と童の装束。ぴしっと新調したので道長はルンルンです。 「物の具、頗る宜しく調ふ。古き物無し。殊に馬副の装束、青き白橡の衣、袴、紅の衣」「童の装束、二藍の薄物の重、袋を結ひて狩衣と為し、蘇芳の織物の袙・青色の織物の袴・紅の打褂・合袴」ふ、袋を結う…?
『栄花物語』藤原伊周の子、道雅(19)の装束。 「蔵人の少将、いと色合ひ美しう顔つき良げに、あべきかぎり絵に描きたる男の様して、香に薄物の青き重ねたる狩襖に古紫の固紋の指貫きて、紅の打衣などぞ着給へる。色あはひ、なにとなく匂ひ給へるに、ましていたう泣き給へれば面あかみ給へり」
『栄花物語』藤原伊周の長女、大姫君の装束。 「大姫君はただいま十七、八ばかりにて、御髪細やかにいみじう美しげにて、丈に四、五寸ばかり余り給へり。御容ありさま愛嬌つき、けちかうらうたげに、色合ひなどいみじう美しうて、白き御衣どもの上に紅梅の固紋の織物を着給ふて、濃き袴を着給へる」
『紫式部日記』1009年の敦成親王(後一条)の戴餅の儀での宰相の君の装束。 「紅の三重五重、三重五重とまぜつつ、同じ色の打ちたる七重に、単衣を縫ひ重ね、重ねまぜつつ、上に同じ色の固紋の五重、袿、葡萄染めの浮紋のかたぎの紋を織りたる、縫ひざまさへかどかどし。
『紫式部日記』五節の舞姫付き女童、ラストは藤原中清の支度した装束です。 「汗衫は五重なる中に、尾張はただ葡萄染めを着せたり。なかなかゆゑゆゑしく心あるさまして、ものの色合ひ、つやなど、いとすぐれたり」 『栄花物語』には「尾張は葡萄染を三重にてぞ着せたる」とあり訳がわからn(以下略