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1930年にハイチで生まれ、ニューヨークへ移住したマックス・ロマンは、人生の後半に絵を描き始めた。その作品には、ハイチで見たカリブ海の色や生活、ニューヨークの多文化の影響が色濃く反映されている。また、幼い頃からの教えを受けたブードゥー教のシンボルや儀式も彼の絵画に多く登場する。
メキシコのジャングルに居住するラカンドン族として生まれたカユム・マックスは、少年時代に、スイスの探検家ガートルディス・ブロムの勧めで初めて絵筆を手にした。彼は、キャンバスにアクリル絵具で作品を制作しており、ジャングルの緑豊かな風景を描いた絵画は、人間と自然の関係を探求している。
高校の美術教師だったベラ・ゼイフトは、20代から作品発表を始めたが、美術業界からは阻害されていた。やがてアルコール依存症になり、全てを失い、残りの人生のほとんどを路上で過ごすことを余儀なくされた。蚤の市で芸術作品を制作するようになり、コレクターたちがは積極的にその作品を追い求めた。
ウィーンで生まれたヨハン・コレクは、知的障害者のための学校を卒業した後、農場で働いた。そして、44歳から71歳で亡くなるまでグギング「芸術家の家」で過ごした。新聞に掲載されたイラストから着想を得て、自らを主人公に、愛し合う恋人たちの描写を好んで描いた。絵の下には、日記を記している。
オーストリアの芸術家の両親のもとに生まれたガートルード・ホンザッコ=メディスは、母の死後、交霊術で母の霊と接触。母の霊の指導により絵を描き始めた。裏面には絵に対する母のコメントが自動筆記で描かれていた。父は娘の絵に触発され、娘の絵を複写し、娘と共同で作品制作をするようになった。
ヴェネツィアの船大工ナルシソ・ブレッサネッロは、61歳のとき、胃潰瘍に苦しみ、数週間安静を余儀なくされた。抑えきれない衝動に駆られ、彼は何百枚ものドローイングを描き始めた。以来、造船所にアトリエを構え、毎日自動筆記で複雑な形の網目構造の中に、人物や動物、建物などの絵を描き続けた。
塔本シスコは、46歳のとき、夫が事故死。2年後に、軽い脳溢血で倒れた後、手足のリハビリをかねて石を彫る。53歳からは、画家である息子が描いた100号の絵の表面の絵の具を包丁で削ぎ落とし、上から自己流の絵を描き始める。以後、92歳で逝去するまで、膨大な数の作品を約40年間に渡ってつくり続けた。
風景画家として活躍していたニーナ・カラセクは、44歳のとき、レンブラントが現れ、導きにより全く違う絵を描いた。以来、ジョエルと名乗り、ゴヤやクリムトなどの画家と接触し、自動筆記により絵を描くようになる。
世俗を離れて暮らし、69歳で他界。
死後56年経った2008年に作品が初めて公開された。
71歳になるペリハン・アルパシーラーは、トルコのボヤバトで生まれた。
ドイツのフランクフルトに30年以上住んでおり、ゴールドスタインのアトリエに所属している。
彼女は、主に人間の肖像画をモチーフにして絵を描いている。独自の水墨画の技法を駆使することで、人の出会いの儚さを表現している。
76歳になるミゲル・アマテは、スペインで生まれた。7 歳から絵を描き始め、12歳で初めて絵を販売し18歳で美術学校へ入学した。ボロ布や様々なアクセサリーを使って巨大な人形を制作するようになる。彼は自分の作品を「アール・ブリュット」ではなく"残酷な芸術"、「アール・ブルータル」と呼んでいる。