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【心少し延びたる者】楠木正成の三男正儀は、1352年の八幡の戦いで、楯の裏に横木を付け足して、家屋の上へ登れるように工夫して戦った。この戦闘で幕府軍の細川頼春は、鑓で咽喉を衝かれて討死したという(吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事)。父譲りの用兵家と言えよう。
#エアコミティア_歴史
【岸和田合戦】雑賀・根来等の一揆に備えて岸和田城に赴任した中村一氏は、彼ら一揆の来襲に苦戦したが、勇躍奮闘の末に撃退したという。
また一説に、城方が落城かと諦めかけたとき、夥しい数のタコの大軍が押し寄せ、一揆勢を退却させたという「蛸地蔵伝説」も残っている。
弓道の日。私は経験ありませんが、弓の武者をネタにして、沢山描きましたので、いっちょ噛みしておきます。
押捩り(少弐景資)
小笠懸(北条時宗)
通し矢(星野勘左衛門)
鳴弦(八幡太郎)
【槍の勘兵衛】数々の武功で知られる。山中城攻防戦では、城兵の間隙を衝いて三の丸に侵入、敵と入り乱れて二の丸へも潜入に成功、遂に本丸にたどり着き一番乗りを果たしたという(渡辺勘兵衛武功覚書)。途中で同僚が何人も負傷・戦死しているので、短時日の落城とはいえ相当な激闘だったようだ。
大島光義は、13歳の初陣以来、弓での功名は数知れない武辺者で、齢80になんなんとした頃、豊臣秀次の命で八坂の塔の窓へ、10本の矢を射込んだほど健在であったらしい(寛政重修諸家譜)。気力はなおも衰えることなく、97歳の長寿を保った。
【楠木正行妖怪退治】楠木正行は、多門丸と呼ばれた少年の頃、妖怪(古狸)を倒した伝説がある。
〈注〉画像の漫画は、国文学研究資料館蔵『楠正行戰功圖會』を参考にして、クリエイティブ・コモンズ表示4.0ライセンス CC BY-SA(https://t.co/OV7nMe45DM)の下、創作しました。