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【自由研究】
今日までの完成には至らず…。ウラ面の方が、オモテ面よりも作るのが楽しい。
ちゃんとシールにできるように、引き続きゆるゆる頑張りまーす。
【碇知盛】平知盛は、壇ノ浦の戦いでの敗勢が決定的になると、船の上を掃除し、鎧を二領着て海に飛び込んだとも、碇を抱えて身を投げたともい言われる。平宗盛も同様に海に飛び込んだが、泳ぎが上手くて沈むことができず、源氏方に生け捕られた(平家物語)。
【河野の後築地】弘安の役に出陣した河野通有は、元軍の襲来に備えて築かれた防塁の石垣を背にして、浜辺に陣取り決死の覚悟を示し、そして勇猛果敢に戦ったという(予章記)。
【京都火消役】天明の大火の際、火消当番だった丹波亀山藩主・松平信道は二条城本丸こそ焼失したものの、二ノ丸御殿の消防に成功、次いで京都御所へ急行する。禁裏は下馬が原則だったが、信道は下馬札に羽織をかけて押し通り、帝の避難に尽力。これが評判になり、以後緊急時は下馬不要の先例となった。
【矢合わせ】元軍が上陸し、いよいよと見た日本軍は、少弐資時に開戦の合図の矢を射させた。射手に選ばれるのは名誉であり、初陣でもありして、感動的場面であったが、元軍は銅鑼を鳴らしてドッと笑い、日本の馬は驚き、兵は茫然となった(八幡愚童記)。武士が異文化と接した瞬間の記録ともいえる。
【矢文】島津氏の将の新納忠元が水俣城を攻めた折、籠城する犬童頼安にむけ「秋風に水(皆)俣落つる木の葉哉」と、落城の意を込めた矢文を送った。対して頼安は「寄手は沈む浦波の月(月の浦波とも)」と記した返し矢を送り、そちらこそ気を付けろと応酬したという。
【北畠親房と顕家】北畠顕家は、元弘元年に「陵王」を舞い、後醍醐天皇の御覧にあずかり、以後重用された。父の親房は「神皇正統記」を著すなどして後醍醐死後の南朝の精神的支柱として君臨した。