▶︎ 何か事を成すにあたっては、道を実践する者は道と一体となり、徳を実践する者は徳と、乱心する者は混乱と一体となる。
そして、誠実さの足りない者は、人々から信頼されないものだ。
▶︎ 見識を誇らないので、物事を深く理解でき、正しさに溺れないので、是非がよく分かる。功績を自慢せず、かえって信頼を得て、才能をひけらかさず、長続きできる。
争う気がないので、人々が争うことは無くなる。古来、曲がることで全うできると言われるのは、誠実に道に沿って歩むことなのだ。
今日の『老子』。(道教第二十二より 私訳)
曲がった木は伐られずに天寿を全うし、屈んだ姿勢からは真っ直ぐに伸びていく。窪んだ場は水を満々と湛えて、衣服が破れたなら新たに仕立てる。少なければ得ることができ、多ければ色々と惑う。
このように聖人は道を貫くことで、世の模範となる。▶︎
▶︎ 強い風に吹かれ、留まることはない。
人々は皆有能で、私だけが愚かで、朴訥なままだ。私は一人、人と異なり、ただ道を尊び、歩んでいく。
▶︎ ひっそりと静かに佇んでいて、笑い始める前の赤子のようだ。疲れ果て、帰る場所などない様子だ。
人々は皆裕福で、私だけが貧しく、愚かで、無知な様子だ。
人々は有能で輝き、私だけが愚かだ。人々は弁が立ち、私は茫然としている。まるで静かに悠然と広がる海のようだ。▶︎
今日の『老子』。(道教第二十より 私訳)
学びを絶てば、憂いは無くなる。肯定と否定の差も、美しさと醜さの違いも大したことはない。怖れなど、怖れても仕方ない。
道は広々として、果てしない。
人々は嬉しそうに、華やかな宴を催し、春には高台に上り、物見をしている。私だけが一人、▶︎
芭蕉翁の言葉。
「耳をもて俳諧を聞くべからず、目をもて俳諧を見るべし(耳障りの良い調べで、俳諧に触れるのではない。目で見たように鮮烈なイメージが湧き出てくるように、触れるべきである。)」
芭蕉翁の言葉。
「風雅の流行は、天地とともにうつりて、只つきぬを尊ぶべき也(俳諧の風雅は、時や場によって移り変わる。ただ溢れ出て、尽きないことを尊べばよい)。」
「不易流行(時を超越した普遍、永遠の価値。そして時代における斬新な流行、変化の表現。これらは表裏一体である)」