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#意外と知られていない戦国時代小ネタ
蜂須賀正勝も羽柴秀吉の“与力”だが、給料は竹中半兵衛より断然上
与力は必要経費と俸禄を派遣先から貰うが、正勝は天正元年(1573年)には秀吉麾下最高の三千二百石を得ており、半兵衛の千五十石とは三倍強違う
正勝は与力として播磨龍野五万三千石まで出世した
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
竹中半兵衛は羽柴秀吉の“家臣”ではない
半兵衛は姉川の合戦後の元亀元年(1570年)七月、織田信長から秀吉に“与力”として付けられた言わば
“本社からの派遣社員”
であって肩書は秀吉と同じ信長直臣
その立場は、半兵衛が逝去するまで変わらなかった
#信長公記
@nobutoyo_tenkyu 山県昌景『…思い当たる節としては…広瀬景房殿や三科形幸殿、石黒将監殿ら我が山県隊に縁ある者達が“井伊の赤備え”を構成した事だな
武田にいた頃から赤備えの武威を誇ったのだと、思われたのやもしれん』
④畿内・旧幕臣派
明智光秀を漠然としたリーダーとする、信長上洛後に帰属した者達
明智光秀と姻戚の荒木村重や細川幽斎・筒井順慶、足利義昭を一時は主君と仰いだ者同士として三好義継や松永久秀も該当
両細川の乱や永禄の変で権力者が呆気なく死ぬのを見ているので、機を見るに敏な者が多かった
①佐久間・柴田派
織田家家督争いでは信長と信勝に別れてはいるが、信長政権初期は彼らの支持を得てこそ家中を運営できていた
信長も佐久間信盛には最高待遇を与えつつ柴田勝家には利家ら府中三人衆を与力(見張り)につけて警戒を怠らず、織田政権盤石期には信盛を追放しその基盤を吸収している
@nobutoyo_tenkyu 浅間山「バァン!(噴火)」
小山田信茂「 おいゴラァ! (武田家当主の船から)降りろ!(総領の)免許持ってんのかコラ!」
穴山梅雪「(武田家次期総領の席)早く持って来いよ。おうあくしろよ」
武田勝頼「すいません許して下さい、何でもしますから」
#武田にとって真夏の夜の悪夢 #一転攻勢はないです
@NobutadaAnayama 小瀬甫庵『ヒント、儂の勤め先と前田家のその後の隆盛。
…覚えておく事です、歴史は勝者と勝者への忖度で紡がれるという事を』
前田利家「っかしいなあ、何で儂の息子達は内府の屋敷に馬を繋いでおるのだ」
徳川家康「お前が儂より早く死んだから」
石田三成『私のーお墓のー前でー♫泣かないで下さいー』
三好長慶「其処に私はー居ませんー♪眠ってなんかーいませんー」
石田三成『そっちは供養塔だから実際居ないよな』
三好長慶「寺伝では分骨墓らしいから多分居るぞ」
#供養塔と墓はごっちゃにしてはいかんだろう #大徳寺三玄院