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石田三成『賤ヶ岳の戦いと言えば七本槍だが、儂と刑部(大谷吉継)もこの戦で槍働きし敵の首級を挙げておる
なので儂も刑部はノンキャリ(現場=戦場の苦労を知っている)という事になる
まあ、儂の手柄は“佐吉違い”…桜井佐吉家一の手柄と混同したのでは、なんて話もあるがな』 https://t.co/g2qBySkG7b
上杉謙信『え、信玄君死んじゃったの!(箸を落として号泣
好敵手を無くした!三日喪に服して歌舞音曲を禁じる!勝頼君に手紙書く!!!』(日本外史)
上杉謙信「いや、儂は信玄心底嫌いなんだが
信長ー、あいつ死んだらしいから挟撃作戦しようぜ!俺は越中、そっちは信濃なー!!」 https://t.co/f6QB8TLroA
羽柴秀吉『後残り三回、守り抜けーッ!!!』
雑賀孫一「誰だよ敵の四番バッターが火蓋切らずに引き金引いてるとか言った奴は!!!」
徳川家康「逃すなーッ!!!
此処が我らの小牧長久手と心得よ!」
#阪神タイガース #猿と狸のバカ試合 https://t.co/b48RIgOHMh
天正四年(1576年)四月十八日
山科言経『日野輝資殿と共に飛鳥井羽林(雅敦)を訪問、“ウトン”を振る舞われる。
三条西の爺様…じゃない、実枝(実澄)卿らと蹴鞠に興じる』
山科言経『ずるずる。
…なんか、昨日も啜るもの系だった気がする
蹴鞠?御相伴に与ります…あり、やう…よっと』
#言経卿記
@raisoku_123 足利義昭『器の大小など、後世の評価で幾らでも変わるから生きてる間に悩んでも仕方ないぞ』
尼子晴久「わかる」
柿崎景家「わかる」
上杉謙信「わかる」
#前三者は一昔前の戦国SLGだと下手したら智謀が百点満点中二十点無かった #最後の一人は器量と性格評価が急降下した
天正十年(1582年)四月十七日
山科言経『冷泉黄門(為満)殿に“サウメン”を振る舞われる。
暮、冷泉殿が来訪。“詠歌大概”(定家の歌論書)について講義する』
山科言経『ずるずる。
ええ、相変わらず銭はありませんね。日記を反故紙に書くほどです
定家の講釈?よござんす、夕暮にどうぞ』
#言経卿記
永禄十一年(1568年)四月十五日
山科言継『午後二時頃、伏見殿(伏見宮貞康親王)が亡くなられた。御歳二十二歳のご早世は、言葉に出来ない…言葉に出来ない』
織田信長「嬉しくて?」
山科言継『悲しくてに決まっておろう、儂ゃ小田和正か』
織田信長「オフコース」
山科言継『もうええわ』
#言継卿記
@nobutoyo_tenkyu そういえば織田信忠さん、戦国時代あるあるで“勘九郎”が“菅九郎”って記載されてたりするんですよね
…あっ(
#というか織田一門も大半ろくな目に遭ってない疑惑
#唐突な太閤立志伝5小ネタ
問・柴田勝家『刀で個人戦の多対一が勝てぬ!
奴輩、此処ぞと言うときに予想外の動きで背後に回るわ挑発するわで始末に終えん!
答・前田慶次「何、苦無を使って遠距離から攻撃すれば良い
剣豪に喧嘩を売るとかなら兎も角、山賊程度なら腕っ節次第では一撃で倒せるぞ」