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オスマン帝国で奴隷は七年も使ったら解放するのが常識でしたが、あくまで常識であって法制化はされていませんでした。
帝国末期、いつまでも解放されない奴隷が気に病み、職場に放火した例が記録されています。
そして帝国末期おなじみ「法を無視した皇帝のお裁き」により、何と放火はおとがめなし😂 https://t.co/XlDMLuHXU5
オスマン帝国の前半において白人宦官は超高官でした。世界史に名を残した大宦官たちと同じく、皇帝の身支度をし聖旨を臣民に伝えるという重職を担っていたからです。
しかし帝国がアフリカ進出して黒人宦官の雇用が激増すると、押されて弱体化していきます。『三日月の国』はそうなる前のお話です🌍️
トプカプ宮殿の大厨房は10棟あり、最北の2棟は菓子厨房(ヘルヴァハーネ)でした。
主な仕事はむろん宮廷風と称えられる絶品のお菓子を作ることで、世界中の珍味を贅沢に使っていました🌍️
また、医食同源の一環として薬を作る場所でもあり、様々な生薬を配合した飴やシロップが作られていました⚗️
オスマン帝国は16世紀頃に最盛期を迎えたとされますが、それはオスマン独自の美術が確立した時期でもありました。
それまでアラビアやペルシアの模倣に終始していたオスマン美術に新機軸が生まれます。それは、写実性を具えた花の文様でした。
開発者は伝説の絵師シャークルの一番弟子、カラメミ🌸
オスマン帝国における皇子の育ち方は時代によって様々でした。
兄の帝位を脅かさぬよう後宮に軟禁されて学問の日々を送る人もいれば、経験を積むために県知事や将軍に任じられる人もいました。
帝都に近い大都市マニサや学問の都アマスヤは皇子が修行する地として有名で、皇子の町と呼ばれました。
トルコ料理が世界三大料理となるあたり、オスマン帝国民は相当グルメだったことが察されます🍽️
軍隊にとっても食事が気に入らないことは反乱の理由になるほどの大事として扱われ、炊き出しは細心の注意を払って行われました。
16世紀頃、オスマン帝国は東の超大国ペルシアと中東の覇を競っていました。
火力で圧倒するオスマンに対し、ペルシアもオーストリアと挟撃を試みたり、オスマン内に反乱を起こさせたりと知略で迎撃。
オスマン側も王位簒奪を目論むペルシア王弟に軍事支援する等、丁々発止のやり取りが続きました⚔️
トルコ民族は歴史的にペルシアに居た期間が長かったため、ペルシア文化を愛好していました。
オスマン帝国もまた然り。16世紀のペルシア人絵師シャークルは2代40年に渡りオスマン皇帝に仕え、授けられた専用の工房で数々の名画を残しました。
天女・龍・花鳥など、何を描いても帝国一だったそうです🐉
オスマン帝国は領土を広げるにつれ、チーズの産地も数多く抱えるようになります🧀
1502年に皇帝バヤズィト2世が出した勅令によれば、当時イスタンブル市中だけでも実に17種類ものチーズが売られており、その生産地域は多種多様でした。
『三日月の国』舞台となる西暦16世紀は、トルコの陶芸にとって転換期でした。
従来トルコの絵付けは呉須の青色が主体でしたが、この一世紀で顔料と焼き方が進歩。鮮やかな多色陶芸が花開きました。
過渡期の前半を生きたシャークルの作は青が多く、弟子達の作はカラフルです🌈