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「人間一人の悲しさや寂しさが、通り一ぺんの薄っぺらな同情ではかり知ることが出来たら、人生は斯うも救はれないものになる筈はありませんわ。まして、一人の人の人格を、一方的な憶測の一言語で批評するなんて、もっての外だと思ひますわ。」(石牟礼道子『道子の草文』平凡社、P56)
「健康人とは、たぶん、基本的に「気の晴れている人」のことではないかと思う。たまに気がふさぐことがあっても、いつか知らぬうちに晴れている。本人がそれを意識できない。基本モードが、晴れなのである。したがって気晴らしについては面倒がない。」(山村修『気晴らしの発見』大和書房、P186)
「いじめをする人は何よりもいじめる相手に依存している。自分自身だけで満足できる(自足)ことを探す能力がなく、常に他人を必要とするわりに、他人に対して不自由なほど神経質である。」(津村記久子『二度寝とは、遠くにありて想うもの』講談社文庫、P30)
「ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ、ぼくはあんなにやさしくはなかった」(野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』新潮文庫、P270)
「外からの影響だけで、いろんなものを選ばされていくと「あのとき、人があんなこと言ったから、わたしこうしちゃった、損しちゃった、こうしなければいいとわたしは思ったのに」なんて、後悔と、愚痴になるでしょう。」(團伊玖磨『もっと自由でなくちゃ 團さんの談話室』集英社、P141)
「自由とは、
「ほかでもない自分自身こそが
自らを導いてくれる存在である」と
気づくこと」
(ダイアン・ナッシュ:述、『プロテストってなに?』青幻舎、P9)
「誰でも、自分がこれこそ正しいと思い込んだものにしがみついてしまうのです。それは逆に言うと、誰のものであれ、人のものの見方や考え方というのは、絶対に確実なものではなく、多かれ少なかれ、偏りや誤りがあるということです。」(藤田正勝『はじめての哲学』岩波書店、P105)
「本を買うということは、その本を「未来に読む」というひとつの約束のようなものを買うことだった。借りてきた本には期限がある。そうなると、そこにあるはずの「未来」が、あまりに短くてがっかりしてしまう。一方、自分のものにした本には、限りない「未来」が含まれていた」(『金曜日の本』P71)