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④畿内・旧幕臣派
明智光秀を漠然としたリーダーとする、信長上洛後に帰属した者達
明智光秀と姻戚の荒木村重や細川幽斎・筒井順慶、足利義昭を一時は主君と仰いだ者同士として三好義継や松永久秀も該当
両細川の乱や永禄の変で権力者が呆気なく死ぬのを見ているので、機を見るに敏な者が多かった
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
大友宗麟は城攻めに“艦砲射撃”を用いた事がある
永禄三〜四年(1560〜61年)、毛利元就が領する豊前門司城を宗麟が攻めた際、豊後に来航したポルトガル艦隊に砲撃を依頼
関門海峡東から門司城目掛けて数十発を撃ち込むも、成果は無かったらしい
#歴代鎮西要略
#実現してほしかった幻の映画企画
鉄砲侍・蛭子八郎太
戦国時代の小田原後北条の鉄砲衆、永禄年間と時代を絞ってるのもの渋い…😅
もののけ姫で世間の度肝を抜いた宮崎駿の本格中世史観の武者戦記…
鎌倉蛭子神社ゆかりの衆だろうから北条綱成の玉縄衆の一党か…?等、戦国マニアの想像が膨らみます😭
永禄3年5月19日「桶狭間の戦い」
なのでおよそ460年前5月20日の今頃の時間
信長はベロベロになって「がはは!人間五十年だっつうの!」とか叫びながら
踊り狂っていたに違いない
という妄想😊
永禄三年(1560年)五月二十日
織田信長が桶狭間合戦で得た今川義元ほか三千余の首実検を行う
捕虜・下方九郎左衛門が首級の面通しに応じた事を賞賛、太刀脇差しを与え十人の使僧と共に義元首級を駿河へ返還する
柴田勝家「首は打ち捨て、って言いましたよね?」
織田信長『(視線逸らし)』
#信長公記
永禄八年(1565年)五月十九日
永禄の変。
朝の早々から“御所巻”を仕掛け、反三好派幕臣・進士晴舎とその娘・小侍従の排除を要求した三好義継・三好三人衆・松永久通に対し、足利義輝が拒絶。
武力衝突の結果義輝は殺害。晴舎は討死し小侍従は捕殺される
松永久秀『…あの阿呆共、何やらかしてんだ!?』
5月19日は【「桶狭間の戦い」が起きた日】
永禄3年(1560年)のこの日、織田信長が今川義元に戦いを挑んだ「桶狭間の戦い」が起きた。今川軍の兵力は織田軍の10倍とされていたが、情報収集などによる綿密な戦略によって織田軍が勝利。信長による天下統一への足掛かりともなった戦い。
#今日は何の日
永禄十二年(1569年)閏五月十一日
“曼殊院覚恕(後の天台座主)の御屋敷が屋根を葺き替えたとの事で挨拶に出向く
次いで甘露寺経元を訪ね、改元などについて話し合う”
山科言継『三好匠作殿の決めた永禄もはや十二年、そろそろ…え、近くに破れ奉行来てるの?』
#言継卿記 #たぶんその速水右近じゃない
永禄十三年(1570年)五月三日
“織田弾正忠殿(信長)を訪問、林佐渡守の取次で徳川家康・畠山高政・松永久秀殿と逢う。話合いの仔細説明を受け、徳川殿他三名に飯が振る舞われる”
徳川家康「言継卿も御健勝で何より(もぐもぐ」
松永久秀「ささ、一献」
山科言継『お、おう(なんだこの面子)』
#言継卿記
永禄十三年(1570年)四月三十日
“夜十一時頃、織田信長が越前攻めから京都に帰ってきたらしい。
武家奉公衆の松井康之殿が越前で怪我をしたらしく、愛州薬(火傷や打ち身の薬)が欲しいというので一包処方する”
山科言継『弾正忠殿も運が良い、鰐口を逃れなされた
はい、愛州薬。御大事に』
#言継卿記
永禄十一年(1568年)四月十五日
山科言継『午後二時頃、伏見殿(伏見宮貞康親王)が亡くなられた。御歳二十二歳のご早世は、言葉に出来ない…言葉に出来ない』
織田信長「嬉しくて?」
山科言継『悲しくてに決まっておろう、儂ゃ小田和正か』
織田信長「オフコース」
山科言継『もうええわ』
#言継卿記