天武皇子の弓削皇子、万葉歌のイメージやら早逝したことで(多分二十代)、儚いイメージがあります。あと『黄泉の王』…。
毎年言ってる気がするけど私としては高市皇子薨後の皇嗣選定の会議で葛野王に一喝される弓削皇子を描きたいなあとずっと思っております。
(絵はこれしかない長弓削兄弟再掲)

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(もうひとりだけ)

1.大友皇子(伊賀皇子・弘文天皇)
2.なんか扱いがよくないな…と思い始めたのが最初だったような
3.太政大臣or淡海朝皇太子or大友帝
4.本人は悪くない
5.天智天皇・高市皇子・物部麻呂
6.『懐風藻』はおれたちの味方だ
7.毎年壬申の乱だよ

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高市皇子、こんな壬申の乱真っ最中な時期の薨去なのがまたしんみりしてしまう。「後皇子」の名前も微妙な響きに感じてしまう。
活躍とは裏腹にしんみり要素が多い高市。

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これだけ前面に出てきて活躍して(ただし戦いの最前線にいたわけではなさそう)おきながらその後も絶対に即位できない的位置づけなのが逆に高市皇子の存在感増してるなあ。
(即位してた説もしくはしようとしてた説もあるかもしれんが)

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高市皇子が全面に出てくることもあって、大友皇子と高市皇子の第二世代の戦いという構図も無きにしも非ずだと思うのですよね壬申の乱は…
(というのは個人的な思い入れでもありますが)

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天平十七年九月四日 
知太政官事兼式部卿從二位鈴鹿王薨。高市皇子之子也。

てことで今日は鈴鹿王の忌日でした。
兄があんな最期で何を思ったのか…と思いつつ兄が居たらここまで皇親の重鎮になってたかわからんしなという複雑な思い。(同じようなことを毎年言ってる気がする)

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持統天皇十年七月十日
後皇子尊薨。

後皇子尊こと高市皇子薨去。
大友についで壬申の乱でしんどい子。壬申の乱期間に忌日がきてよりしんみりしちゃう。

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大友皇子の子(母は十市皇女)、葛野王が卒去。
享年三十七歳は若いですね。
本人も血統としては申し分ないレベルの人物ですが、高市皇子薨去後の皇位継承会議で親子間の継承を主張して軽皇子立太子を推し、もの申そうとした弓削皇子を一喝したという場面が有名です。

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壬申以降はあまり多くない高市皇子のハイライト。
香久山宮のイメージとこの記事のお蔭で藤原京イメージが強い人。

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ねこねこ日本史の推しを描きました!!!!!
長屋王と高市皇子と大海人皇子(天武天皇)です!!!
天武天皇は何気に出番多いよね。息子と孫は一瞬なのに😇


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天平十七年九月四日 
知太政官事兼式部卿從二位鈴鹿王薨。高市皇子之子也。

知太政官事兼式部卿従二位の鈴鹿王薨去。高市皇子の子である。

鈴鹿王の忌日でした。
兄が色々派手な面がありすぎて影薄めだけど兄の死後は皇族の重鎮になってたし多分普通に長屋王レベルの暮らししてたと思うわ…

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壬申の乱期間で高市しんど…ってなった直後くらいに忌日が来てしまうのでやはり高市皇子しんどい月間なのでした。勝者側なのにね…

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お題「初代」

後に有名なあの人もあの人もなってる太政大臣もスタートはこの人からですよ!ということで、近江朝太政大臣大友皇子です。しかしあまり冠されることないですね。
次代の高市皇子、そして奈良時代までは職掌や意味合いも全く連結してないと思いますが。

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持統天皇十年七月十日
後皇子尊薨。

後皇子尊、すなわち高市皇子薨去。

絵は一番最近描いた六皇子絵の高市皇子。
最高年齢でもまだ三十代くらいまでしか描いたことがない…

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それぞれの思惑。
最初から皇位につくのを諦めていた人、皇位を望んでいたのか解らない人、皇位を望んでもつけなかった人、望むべくもなく皇位につかざるを得なかった人、その人たちを見守る人。
向かって左から大伯皇女、阿閉皇女、高市皇子、草壁皇子、山辺皇女、大津皇子。
2011年に描いた絵っ😰

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古事記の日本神話から弥生時代古墳時代さらには飛鳥時代までこじらせたオタク
天武持統夫婦と高市皇子に特に反応します!

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